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循環者[サーキュローグ]の姿を可視化する。 私たち、資源問題に関するリサーチ集団ATOWは、そんな標語を掲げています。
直近数回の記事では循環の最小単位としての住宅──特に「最小限住宅」を取り上げてきました。今回紹介する事例もまた“最小限”と銘打った住宅群ではありますが、これまでに紹介した《方丈庵》や建築家たちの休暇小屋とは異なる性質を持っています。それは、「個人の事情や創意ではなく、社会的な要請による“最小限”である」ということです。
今回の話の中心となる1950年代は、第二次世界大戦の終戦から間もない頃であり、世界各国で人口が急増したベビーブームの時代でもありました。アメリカやヨーロッパ、日本において住宅供給の議論が盛んになり、家事や衛生設備に対して現代的な考え方が広がる中、新時代の住宅のあり方を模索する動きも活発化しました。
ここでは、住宅供給のために社会的に要請された「最小限住宅」が、いつしか現代の「理想の住まい」へと変容してきた──そんな流れを辿ってみたいと思います。
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第二次世界大戦後の話を始める前に、まずは現代に繋がる「最小限住宅」の議論がどこからやってきたのかを見てみましょう。
戦間期のヨーロッパでは都市部への人口集中が進み、それに伴う住宅の供給不足が問題になっていました。それを解決するため、モダニズムの建築家たちは、費用や空間の効率が良い集合住宅の設計を試みるようになります。最小限の床面積で快適な生活を送ることができる間取りの検討は、彼らの最重要テーマの一つでした。
モダニズム建築家たちが集う「近代建築国際会議」(CIAM)の第二回テーマは「生活最小限住居」(The Minimum Dwelling, 1929)であり、開催地であるフランクフルトにも「ジードルング」(ドイツ語で「集落」を指す)と呼ばれる集合住宅が建設されました。
なかでも、フランクフルトの公営住宅に設置されたL字型の台所、通称《フランクフルト・キッチン》は、機能主義の代表的作例としてよく知られています。キッチンに着目した住宅研究については、カトリーヌ・クラリス『キュイジーヌ フランスの台所近代史』(2024年、鹿島出版会)などの近刊で詳しく知ることができます。

L字型のフランクフルトキッチン Public Domain via Wikimedia Commons

1930年に刊行された『生活最小限住居』の書影 Die Wohnung für das Existenzminimum. Englert & Schlosser Verlag, Frankfurt am Main,1930
ヨーロッパでの議論と並行して、日本では関東大震災の翌年(1924年)に内務省が「同潤会」を設立し、東京を中心に「同潤会アパート」などの住宅供給を行っていました。その活動を引き継いだ「住宅営団」は戦後にGHQにより解体され、代わりに「日本住宅公団」が1955年に発足。同公団の事業は最終的に、現在の「都市再生機構」(UR)に統合されています。
都市化や人口増加だけでなく、震災や戦災もまた、20世紀の住宅不足の背景にありました。そうした強いニーズを受けて、いわゆる団地が大量に建設されることになったのです。
戦後、住宅供給という社会的要請の影響を受けたのは集合住宅だけではありませんでした。
日本では敗戦直後の1946年、不要不急な建物の建設を抑えることを目的に「臨時建築制限令」が公布され、一戸建ての住宅の床面積は12坪(約40㎡)までとの制限がかけられます。2年後に改正され、「家族5人以下の専用住宅は15坪まで、さらに1人増えるごとに1.5坪追加可能」とやや緩和されたものの、建設資材が不足する中で多くの人に住宅を供給するためには、大きな邸宅の建設は認めがたいという風潮がありました。
さらに、1950年に制定された「住宅金融公庫法」では当初、融資の対象となる住宅の床面積の上限は60㎡(約18坪)と定められていました。この上限も数年で緩和されましたが、少なくとも終戦から8年あまりの間、「必要最小限の一戸建て=床面積15坪前後」というサイズ感が法令で示されていた時代があったのです。
このサイズ感は、2024年度の注文住宅の床面積が平均118.5㎡であること(出典)を踏まえると、現代の住宅の半分程度の空間です。こうした制約下で、家族が快適に暮らせる住宅をデザインすることは可能でしょうか。