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循環者[サーキュローグ]の姿を可視化する。 私たち、資源問題に関するリサーチ集団ATOWは、そんな標語を掲げています。
私たちは活動の出発点として、外部の研究者をお招きした勉強会を実施し、人類の水利用を様々な観点から考察しようとしてきました。これまでの議論に共通するのは、社会空間の中における資源循環の姿を捉えようとする姿勢であったといえます。
しかし、まちスケール(1km四方)から都市スケール(数十km四方)、国土スケール(数千km四方)にまでわたり、何種類もの資源、何万種もの生物、そして何億人もの人々から成る循環の社会空間は、非常に大きく複雑なシステムです。その総体に対して実感を持ち、独自の問いを立てて探求することは、困難であると言わざるを得ません。
そこで私たちは、第1回の記事と同じアプローチを取ってみることにしました。いきなり巨大で複雑な仕組みについて考えるのではなく、小さくてシンプルな仕組みについて考えてみるのです。人が資源を利用し、異種や他人と関わる社会空間の最小単位──それは住宅ではないでしょうか。住宅は食べ、飲み、排泄し体を清め、眠り、会話し触れ合う場であり、そうした生活のあり方を物理的・静的に表現した「うつわ」でもあります。
循環の最小単位としての住宅、その中でも特に**サイズや機能面が最も基本的なレベルまで切り詰められた「最小限住宅」**について考えることから、私たちATOW独自の思考と議論を立ち上げていきたいと思います。
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「最小限住宅」の系譜は、考え方によっては先史時代の洞窟や竪穴式住居にまで遡ることができるものです。しかし住宅が寝食のためだけの場ではなくなり、住宅の集まりを基盤として商業や文化の中心都市が形成された後の時代において、あえて住まいから空間や機能を削ぎ落として最小限を志向した例というのは、そう多くはありません。
その中でも古く、以降の住宅・建築に特に大きな影響を与えた、いわば「元祖・最小限住宅」が登場する文献といえば、『方丈記』ではないでしょうか。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。世中にある人と栖と、又かくのごとし」
無常観が漂う書き出しで始まるこの随筆は、 平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての時代を生きた京都の歌人、鴨長明(1155〜1216年)によって書かれたものです。『方丈記』というタイトルは、彼が晩年に郊外の日野(現・京都市伏見区)に一丈(約3m)四方の小さな庵を設け、そこでの生活と観想を記したことに由来しています。つまり、『方丈記』とは要するに『最小限住宅記』なのです。
鴨長明が暮らした《方丈庵》の間取りは、おおよそ以下の図のようなものであったとされています。石の基礎は設けず、地面の上に木の土台をそのまま組み、部材を簡単に固定しただけの、セルフビルドの質素な住宅です。その場所が気に入らなければ解体し、荷車に乗せて他所へ移動することも可能なものでした。現代でいうモバイルハウスや仮設住宅に近い発想といえるでしょう。
《方丈庵》の平面図
鴨長明がこうした暮らしを選んだ理由は、必ずしも思想的・積極的なものだけとはいえません。彼が生きた時代、京都は安元の大火(1177)や養和の飢饉(1181〜82年)、元暦の地震(1185年)といった災厄に見舞われ、1180年には京都から福原(現・神戸市兵庫区)へと一時的な遷都も行われています。社会的には、貴族や大寺社の力が衰え、武士が台頭する狭間の時代でした。
こうした動揺の中で京都は荒れ、由緒ある神社の禰宜の息子だった鴨長明も出世の道を閉ざされ、最終的に神職ではなく仏教徒として出家を選ぶことになります。世界の変化に翻弄され衰退や挫折を味わった末に、自主独立の生き方を掴み直そうとする試みが、方丈庵での生活だったのではないでしょうか。
鴨長明(菊池容斎画, 明治時代) Public Domain via Wikimedia Commons
しかしそんな生活も、年月とともに次第に板についていきます。鴨長明が自分の生き様を表現するとき、しばしば「かひこ」(蚕)や「がうな」(ヤドカリ)、「みさご」(タカの仲間)といった生き物の比喩を用いるのが、面白いところです。